弘誓寺の沿革とその概要

寶洲山弘誓寺の創立は鎌倉時代の寿永年間であり、凡そ七百七十年になる。創立当時は平安仏教の真言宗で四百年も続いたが、三百五十年前の天正年間に現在の曹洞宗に改められ、以後現住職で二十二代目をかぞえるに至っている。寺の創立者は、日本歴史上有名な斉藤別当実盛の実子、斉藤五郎、六郎兄弟である。源平の戦いに、実父実盛は七十の白髪を染めて出陣討死したが、五郎、六郎兄弟は、平家の勢力下にある伊東へ逃れて伊東祐親の庇護を受ける身となった。当時、頼朝も伊豆流罪の身となり、祐親の監視下にあったが、祐親の娘、八重姫は監視下の頼朝と相通ずるところとなり、一子、千鶴丸(幼名春若殿)をもうけるに至った。
祐親は平家の一属なる故、之を憚って、我が愛孫、三歳の千鶴丸を音無川の稚児ガ渕に沈めてしまうが、事実は五郎六郎兄弟に託して、奥州和賀義治の嗣子に迎えられている。但し千鶴丸は目的の和賀城(今の岩手県)に達することなく奥州白石に於いて疱瘡に罹り二十三歳にして一子忠明を遺して他界している。千鶴丸は後に和賀忠頼と改め系図の上では、和賀城第十一代となっているが、実際の城主となったのは、其の後忠明で、和賀城第十二代目である。二十三歳で死亡した千鶴丸の戒名は天沢宗茂大禅定門正治元年七月二十六日がその没年である。
次に斉藤五郎、六郎兄弟であるが、兄の五郎は後に八重樫源蔵実憲、六郎は小原藤治郎実秀と改め、没後の戒名は五郎韜、武院五道了円居士、六郎は蔵勇院六環玄道居士である。この兄弟になる弘誓寺の創立者であるが、源平の戦いに敗れて、平家の勢力範囲に逃れた兄弟は、身を漁業に落し、一日その出漁中に、七躰観音菩薩の尊像を、漁網の中に拾い、之を現在の弘誓寺の地に奉安したのが、始めである。
その名も観音経の中の「弘誓の深きこと海の如し」の一句より選んで寺名とされている。其の後四百年、荒廃を極めた弘誓寺を、天正年間(豊臣時代)雲水僧大巌和尚、この再興をはかり、曹洞宗と収めて自らは開山となることなく関三刹の一なる大中寺十世、藤沢市天岳院三世韓嶺良雄大和尚を請して弘誓寺開山とされた。開山の住山は二十二年の長きにわたっている。
弘誓寺歴代住職の中でも特筆すべ方は三世和尚と五世及び六世和尚である。三世奉伝和尚は徳川三代家光公の帰依を受け、伽藍の周囲を朱印地として五石の寺領を賜わった。今の境内地に続く見える範囲の土地がそれである。今もその古文書が寺に保管されている。慶安元年八月十七日のことである。次の五世見海和尚は幕府の協力を得て後代に誇る天下普請を行い伽藍を完備している。その本堂だけ見ても間口十間、奥行き八間のツガの木使用の豪荘なものであるが、建立後百八十年の明治二十九年に新井の大火により類焼している。現在本堂に安置されている釈迦三尊、達磨、大元の木像は、五世和尚、天下普請の時のものであり、明治の大火にも難を免れて現在に至っていることは誠に有難いことと云はねばならない。特に釈迦三尊佛は京の名佛師兵部の作りで、元祿七年と記入されている。最後に六世順交和尚であるが、和尚は幕府より江戸城三の丸までおカゴ乗り入れ御免の恩典を受け、以来歴代住職の登城も、十六代量山和尚の慶應二年の登城が最後となっている。
幕府庇護の下、拡張された弘誓寺の所有地は、その建物を中心に十町歩(三万坪)に及ぶ。
以上が弘誓寺の沿革とその概要である。